ポプシー 原作:Stephen Edwin King
ことの成り行きを少しさかのぼってみれば、あの男が金を数える姿を真っ先に思い出す。
ほんの数分前まで自分の尻ポケットに折りたたんで入れてあった一万円札の束は、あの男の太くてシワの寄った指で伸ばされた。
男の金の数え方は、日本の銀行の窓口係がやるような、紙幣に対して無機質な感情を持ったやり方ではなかった。アフリカのソマリアやシエラレオネに住んでいる黒人たちが、自分にとって本当に必要な物を売り買いするとき、金をポケットから取り出し人目にさらすようなことがあれば、いつ自分に銃口が向けられるかもしれないということを注意しているような、緊張と警戒がいつも背中に張り付いていた。日本人に欠けてしまった生への執着と抜け目なさ、それは、お金と生命を同等の位置づけで捉えているからこそできることなのだろう。鉱物や石油のようには希少的価値の無い紙幣が、日本人にとってはどれだけ生命と密接な関わりあいを持っているのか、その男は理解していた。
男は満員電車で嗅いだことのある、犬の屁みたいなにおいのする香水をつけ、とびきりサイズのルビーの指輪をはめた手で札束を固定し、もう片方の手で紙幣を撫でるようにして数えた。男の数えるその金は、ほんの少し前までは自分のものだったのだ。イトウは、ただ茫然としてそのよどみない手練を見つめるしかなかった。
男とイトウはオフィスビルの地階にある酒場で知りあった。イトウはカウンターの真ん中に座り酒を飲んでいた。気分は高揚し、客や店員、誰かれ構わず声をかけた。六時から開始されるトウィンクルレースを的中させたイトウは七十万円の金を得て、浮かれていたのだ。イトウはその大勝を声高に店員や客に話し、自分が酔っていることにさえ気づいていなかった。そして、あの男がすでに隣の席に座っていたことも気づきはしなかった。
ギャンブルが好きなのかい? と男はイトウに話しかけた。イトウは振り返り、その男と顔を合わせた。え、えぇ、まぁね、好きですよ、けっこう。イトウは答え、タンブラーに注がれたウィスキーを飲みほした。喉に焼きつく酷い味の安酒だった。だがイトウはその味にさえ気づかない、彼は、酔っていたのだ。
隣に座った男は整髪剤で後ろに撫でつけた髪型をしていて、シワの刻み込まれた顔は陽に黒くやけていた。ギャンブルが好きなのか、そりゃ感心だねぇ、と男は片方の口端だけをきゅっとあげてにやりと笑った。その表情になにか妙な違和感を覚え、イトウはスツールから立ちあがった。お勘定、と言いかけたとき、男はイトウの手首を掴んだ。
男はにやにやとした表情を浮かべながら、さっきの質問をまたイトウにした。ギャンブルが好きなのかい? イトウもまたさっきと同じ返事をした。え、えぇ、まぁね。それを聞くと男はにやにやと笑いながら満足そうに頷いた。そしてイトウに店を出て少し付き合えないかと誘い、その場の会計を支払った。
男はエタと名乗り、高額レートの非公認賭博場にイトウを招いた。エタのことを信用しているわけではないイトウだったが、このときイトウは酔っていた。そして、見えないなにかに後押しされていた。背中をナイフの切先で突かれているような、焦燥と嫉妬の思いで毎日を生活していたイトウにとって、エタの誘いは人生を変えるありえっこないチャンスだと確信したのだ。
エタに誘われて行った賭博場、高級マンションの一室にあって、二十畳ほどある広々とした部屋のなかには丸テーブルと椅子が並べられていて、数人の客がいた。テーブルの上にはバカラやポーカーやルーレットが用意されていて、自分の目が霞んでいるのだろうかと錯覚を起こすような、ほんの僅かに照明の落とされた、薄暗い雰囲気の部屋だった。
賭け事というのは、その勝負について金銭的な勝ち負けを結果的に示すゲームだ。勝ちと負けの中間という結果になることはなく、勝ちであるか負けであるかが明白に示され、引き分けというのは本来あり得ない。だが、公営のギャンブルなら、余程の馬鹿か強運の持ち主でない限りは勝つことも負けることもなく、中間の結果に落ちつくことだろう。この日使ってもよい金は使い果たしてしまったが、明日になれば労働によってまたいくらかの金を得る。冷蔵庫のなかに隠されてあった妻のへそくりを内緒で使ったわけでもなければ、娘の高校進学のための貯金を使いこんでしまったわけでもない、自分の他には誰の指図も受けない少額のお金を遊興のために使い果たした、ただそれだけのこと。勝ちもなく、負けるもない、ぬるま湯みたいなトワイライトゾーン、湯船に漂うクソみたいにぷかぷかとしたギャンブル。それでいいじゃないか、と多くの人は思っている。そしてイトウも、そう思わずとも思っている、お遊びの賭け事で満足している一人だった。
だが、ポーカーのカードをディーラーから初めて配られたとき、イトウの手札はエースのフォーカード、そして他の客がイトウのレイズに食いつき、ものの五分で三十五万円を手に入れたということが、その慣習を鈍らせた。ケチな欲が偏頭痛のようにこびりつき、病魔に侵された人間の頭上を旋回する死神のように、これまでにない執着の心を開かせた。
イトウはあのマンションの部屋で初めて、本当の意味での、賭けに負けるということを知った。
オープンして間もないショッピングモール、モールに併設された三階建ての立体駐車場にイトウはいた。縄文杉のように太いコンクリートの柱の脇で、イトウは息を潜めている。イトウの視線の先には、駐車場からモールへと繋がる連絡通路があって、その横の壁には大きく2Fと書かれている。平日のお昼前という時間帯だが、オープンしたばかりとあって客は少なくない。車の音や人の話し声が近づくたび、イトウは胸ポケットや履いているジーンズのフラップポケットに手を突っ込み、鍵を探す振りをした。
あの男、エタと名乗ったあの男は、ギシギシ軋むパイプ椅子に座り、いまにも泣き出しそうなイトウにこう言った。三百だ、三百、三百万だよ、イトウ君。イトウは声を震わせ、はいと答えた。イトウ自身、その記憶はもう何万年も昔の太古の記憶に思えた。だが、生きた心地がしなかったこと、約束の金を返さなければ、エタ流特殊形成手術を施され、両肘と両膝をくっつけて海に放り込むと言われたことは感覚的に覚えている。そしてもうひとつ、一番重要なこと、金を用意できないなら、金の代わりに子供を攫ってエタに引き渡さなければならないこと、これだけは脳味噌深く否応なく刻み込まれていた。
イトウにとって、後悔はもう遅い。いったい人生のなかで何度、深く行う後悔のチャンスがあったことだろう。そのたびにイトウは怠っていた。何度もなんども後悔のチャンスを自ら捨て、背中を向けて逃げていた。そして、明滅する誘蛾灯に誘われる一匹の蛾のように、イトウは破滅への道を突き進んでいたのだ。
コンクリートに囲まれ殺風景とした立体駐車場の天井には、破損防止のための金網付きの蛍光灯が、青白い光をともしている。イトウは口を半分開けてその光を見つめた。なんの為にここまで生きたのか、どうしようもない、どうしようもない、イトウは頭を抱えた。針で刺さされるような痛み。賭けに負け、自分には子供を攫うしか手段はないのだと踏ん切りをつけるまで、何度も頭を掻きむしった。そのせいで頭の皮膚が薄くなり、髪に隠れているものの、血が滲み所どころカサブタができているのだった。
歳はまだ二十三になったばかり。子供もいない、結婚もしていない、ここで人生を終わらせたくない、イトウは思う。自分の手で自分の首を締め上げてきたんだ、ずっとそうだった。
ただ、少しばかり働いていれば、平穏で、それなりに豊かな生活、そして、毎年やってくる春を迎えられると思っていたのに。いったいいつ、どこで、間違えたのか。
車の音が近づいて来る。イトウは頭を抱えるのをやめ、胸ポケット、次いで尻ポケットを探った。目の前を車が通り過ぎてゆく。黒いシボレーの運転席に乗っていたのは、自分と同い年くらいの若い男と女だった。
シボレーのテールライトを目線で追いながら、イトウは走りだしそうになっていた。走ってシボレーに追いついて、運転席の窓を叩く。すいません、すいませんちょっと止まってください、運転席の男は何事だろうと思って車を止め、窓を開けることだろう。なにかご用ですか? 男はなにも不審がらずに窓を開ける、ほとんど全開にまで窓を開ける。そして言うだろう、なにかご用ですか? と。イトウは開きかけた男の口元に鋭く拳を突き立てる。助手席の女はなにが起こったのか理解もできずに悲鳴をあげる。構わずもう一発殴る。男は逃れるためにアクセルを踏み込むかもしれない。発進させまいとイトウは開いた窓からレバーを掴んでドアを開ける。女が悲鳴をあげ続ける。そして、そして。
モールの自動扉が開いて、イトウは考えることをやめた。二人の子供を連れた男と女が見える。夫婦は四十歳ぐらいで、男の方はベージュのチノパンにモスグリーンのセーターという、チラシのなかのファッションモデルが飛び出て来たような格好をしている。女の横をちょこちょこ歩く子供は七歳ぐらいで、その少し後方を歩く男の子は五歳ぐらいだ。
エタがイトウに攫えと指示したのは、だいたいそのぐらいの歳の子だった。賭けに負け、前歯の黄色いトルコ人に腕を掴まれ、奥の部屋に連れて行かれたとき、エタはにたりと笑って言った。
「人間ってのはなぁ、不思議なもんだ。なぁ、そう思うだろう?」
エタはリクライニングチェアにふんぞり返り、噛みタバコをくちゃくちゃやりながら、脇に立っているトルコ人に言った。トルコ人は体長二メートルほどもあるトロールみたいな大男で、いつも鼻を垂らしていそうな間抜けな顔をしていた。
「は、はい。そうです、不思議です。とても」
「あぁ、そうだ。不思議なんだ。負けるとわかっていても、実際その場の流れってものに一端乗っちまうと、もう離れられなくなる。絶対に負けるとわかっても、流れに乗っかるという意思を制御出来んようになる、強風に背中を押されるみたいにな。なぁ、そうだろう、イトウ君はまさにその風に押されていたろう」
「はい、そうです。その通りです」
トロールが同意する。イトウは膝を掴んで俯き、エタの言葉はほとんど耳に入っていなかった。
「要はだ、人間ってものは、自然に生きるしかねぇんだよ。本来的に否応なく備わっちまった負の性質、なんてものも、自然の一部なんだ。だからな、いくら自分で制御しようと思っても、絶対に抗えっこねぇわけだ。自然には誰も逆らえねぇだろう。竜巻だって台風だって津波だって地震だって、来ちまったもんは、去るのを待つしかねぇんだ。自然に逆らおうとすると、不自然になっちまうんだ。不自然ってのは、辛ぇよなぁ。なぁ、そう思うだろう、不自然は辛ぇよなぁ」
「はい、辛いです、とっても」
イトウは足許に唾を吐き、袖で口を拭った。苛立っていた。コンクリートの陰から、人の出入りが少ない出入り口を見張る。これがどういうわけか、しっくりくるような気がするのだ。それは、子供を攫うという行為のことではなく、こういう事態になったことが自分の、神様があくびをしながら、机に肩肘ついて書いた筋書きに違いない気がするからだった。
モールの自動扉が開く。薄青い制服を着た二人の警備員が出てきた。思わずイトウは身を隠す。一呼吸置いて顔を覗かせる。一人の警備員は手にフリップボードを持っていて、そこになにかを記入している。もう一人の警備員は大あくびをかいている。
広告モデルのパパの家族は、連絡通路を渡り終えようとしていた。女が横にいる子供の手を取った。そのとき、一番後ろにいた男の子が、ぴたりと足を止めたのだ。
パパ、ママ、子供の三人はさっさと歩いて行ってしまう。イトウは見つめた、後ろの子を。取り残された男の子は足を止めたまま下を向いた。モールの入り口にいる二人の警備員はそれぞれの作業に熱中している。一人は記入、一人は大あくび。
カッコウの鳴き声みたいな電子音がした。モデルパパがリモコンキーで車のロックを解除したのだ。イトウはそちらを見た。ヘッドランプが瞬いているのはSシリーズの白いボルボだった。子供を忘れてるぜ、おっさん、イトウは呟いた。
連絡通路の男の子はまだそこにいて、下を向いている。その後方の警備員はその子に気づいてもいない、もしくは道端の犬のクソほどに無関心であるかだった。間もなく警備員は背中を向け、モールへと入って行った。ボルボのドアが閉まる音が、コンクリートとアスファルトに反射して聞こえてくる。反対側からエンジン音が近づき、イトウは鍵を探す振りをした。なんてことだろう、今ではこの一連の動作が、不自然に感じない、全く不自然に感じない。イトウは確信した。あの男の子は、迷子だ。
ボルボのエンジンがスタートする。同時にイトウは柱の陰から飛び出した。連絡通路にいる男の子に向かって一直線に進む。車の列の間を体を横にしながらイトウは小走りに駆けた。背後でボルボのエンジン音が遠のいてゆく。
モールから出て来る客はいない。今しかなかった。
「ねぇ坊や。君、迷子なんだろう」
イトウは声をかけた。男の子が顔をあげる。その瞬間イトウは肝を冷やした。男の子の白目であるはずのその部分が、サイケデリックアートみたいなピンクパープルに発色していたからだ。
「違うよ、ぼく、迷子じゃない」
男の子は首を振った。今はもう男の子の目は普通の色をしている。気をしっかり持て、なんてことはない、普通の子供じゃないか。ビビるな、落ち着いてやるんだ。さもなくば、お前が死ぬことになるんだぞ。肘と膝を接合されて、冷たい海のなかに放り込まれたいのか、ちくしょうめ。イトウは口に出さずに言い聞かせた。
「へぇ、そうか。でもさ、誰かを探してるんだろう? 違うかい?」
「うん、まぁね。誰かを探してるって、なんでわかったの?」
よし、オーケーだ、この調子でやるんだ。
「君の顔にそう書いてあるよ」イトウはにっこりほほ笑んだ。そしてそうであるように、願った。「なぁどうだい、おれと一緒に探さないか?」
「うん、いいけど」男の子はこっくり頷いた。だがその目にはまだ疑心の色が濁っている。「探してるのはね、ポプシーなんだ」
「ポプシー? それって犬かい?」
ここでぐずぐずしてはいられない。連絡通路で二十歳前後の男と五歳ぐらいの男の子が話しているのは、これといって怪しく思う人間はいないだろうが、あまり見られないようにしなくてはならない。イトウは男の子の肩を軽く掴み、自分の車が停めてあるほうへと促した。
「違うよ、犬じゃない」男の子がイトウの手を振り放そうとする。「ポプシーだってば!」
暴れられてはまずい。「あぁポプシーか、そうかそうか、あれのことだったのか。おれはてっきり、あぁそうだ、勘違いしてたんだ。そうかあのポプシーのことだな」そう言いながらイトウは男の子の両肩を掴む。自然なふうに自然なふうに、お前はこのために生まれてきたんだろう、冷静になれよ、冷静にことを運べ。神も幽霊も信じない虚無主義者が、窮地に陥ったときにだけ神を信じるような心境だった。「そういえばさっきおれは見たんだよ」
「え? なにを?」
男の子は暴れるのをやめ、イトウに顔を向けた。その目にはさっきあった疑心の濁りはない。今そこあったのは、希望の光だった。イトウは少し声高に、出来る限りの声量で言ってやった。
「ポプシーだよ、おれは見たんだ。おれの目の前を駆けて行ってさ、あっちへ行っちゃったんだ」
イトウは駐車場の出口の方を指差した。
「え、ほんとに!」男の子が驚きの声をあげる。「それは大変だよ! ポプシーは明るいとこが苦手なんだから!」
駆けだしそうな男の子をイトウは必死に止めた。
「ちょっと待てって、そんなに息せききらないで周りを見てみろよ。ここは駐車場なんだぜ。こんなとこをお前みたいな小さな子が走りまわってみろ、あっと言う間にピザみたいに引き伸ばされちまうぞ。それにポプシーを見つけるなら、車に乗って探したほうが賢いじゃないか」
男の子は一瞬考えて、こっくり頷いた。
「うん、そうだね。なんてったってポプシーは足が早いもん!」
「な、そうだろう」
ポプシーってのは猫だったよな? とイトウは聞こうとしたが、やめておいた。のんびりしていられる場合ではないのだ。
イトウと男の子は太いコンクリート柱の陰に駐車してある車に向かった。その途中、二台の車が二人の横を通り過ぎた。一台はマツダの、もう一台はBMWのブリティッシュデザインのコンパクトカーだった。
イトウの車はとても古くて、誰の記憶にも、どの書物にも記録が残っていないほど大昔に廃業してしまった、アメリカの自動車メーカーが造ったステーションワゴンだった。
「これ、走るの?」
助手席側にまわった男の子が言った。イトウに言ったのではなく、ひとりごとのように小さな声だったのが、冗談で言ったのではないというなによりの証拠だろう。
「走るさ、とてもよく走る」
イトウは肩をすくめて答えた。そして左側にある運転席のドアを開け、体を滑り込ませるようにして車に乗り込んだ。イトウはシートベルトを締めながら顔を横に向けたとき、男の子が直前になって、背中を向けて走り出しているところを頭のなかで思い描いた。ハイビジョンよりももっと鮮明な映像で描き出された嫌な予感だったが、現実にはそうならず、男の子は既に隣の座席に乗り込んでいて、シートベルトの留め具と格闘していた。
「壊れてるんじゃないの、これ?」
男の子はシートベルトの先っぽを、留め具のなかにぐいぐい押し込みながら言った。
「いいよ、シートベルトなんかしなくっても」どうせ必要なんかないさ、とイトウは思う。あとほんの少ししたら、お前は後部座席のフロアマットとキスすることになるんだからな。お母さん、お父さんって叫んでも無駄なんだぜ。誰も助けてくれやしない。世のなかは非情さ、人ってものはここぞというときに限って助けてくれないものなんだから。なぁ坊や、勘弁してくれよな、おれだって好きこのんでこんなことをやってるわけじゃないんだ。あの男に指示されて、仕方なく誘拐なんてことをやってるんだ。あの、エタという男に。エタに引き渡したお前がその後どうなってしまうのか、おれには全く想像がつかない、したくもない! 悪く思わないでくれよ。
「早く出発しようよ」シートベルトの留め具に勝利した男の子が、イトウの服の袖を掴んだ。「ポプシーはすっごく足が早いんだから」
「あぁ、わかってるさ」イトウはイグニッションにキーを差し込む。「ところで、ポプシーってのは、猫だったよな?」
「え、違うよ」百年物のエンジンが、胃痙攣を起こしてひっくり返りそうなほど激しく咳き込み始動した。「――まだよ」おんぼろエンジンによって男の子の返答は、半分以上がかき消された。
イトウの運命はこの瞬間、カチリと金属的な音を立てて定まった。それはまるで時計の内部構造のように、それはまるで、沈没船のなかで一万年も誰かに開けられるのを待っていた、大きな鍵穴のついた宝箱のように。すなわちそれは、イトウの運命はまだ決まっていなかったことを意味する。イトウは決めつけていたに過ぎなかったのだ。行為によって生じる自然、不自然さとは、最初から決まっているわけではない。なにかをして、違和感を覚えるといったことは、その時々の気分であり、ほんの一時の情動に過ぎない。個々における性質の違いは多少なりともあるにせよ、打ち破らなくてはいけいのだ。不快感や違和感や不自然さを忘れようとしたり受け入れようとしたりするのは、年齢を重ねるごとに難しくなってくるものではあるが、それを打ち破るという意識は、絶対に必要だったのだ。
運命の始動はすべからく遅い、長期にわたり猶予を与えられ、矯正することが可能だった。だがイトウは、このタイミングで完全にそれを放棄した。ホイールオブフォーチュン、運命の輪を回す怠け者の女神が、そっとイトウにウインクする。イトウは突発性の全身麻痺になる人が麻痺の直前に感じるという、手と足の全ての指の先端を、鋭く尖った針で刺されるような痛みを味わった。だがその痛みはほんの一瞬のことだったから、イトウは叫び声をあげることも掴んでいる鍵を離してしまうこともなかった。
目の前いっぱいにフラッシュが焚かれたように、ちかちかして、暗転した。暗闇を見た。光も見た。そこに、女神を垣間見た。
「ねぇ、はやく行こうよ」
男の子がグローブボックスを両手で叩いて催促した。
「あぁ、そうだな」イトウは頷く。そして口いっぱいに溜まった唾を、ごくりと飲みほした。全身の皮膚が粟だち、ステアリングハンドルを握る手が小刻みに震えている。いったいおれはどうしたってんだ、イトウは下唇を噛んだ。いつの間にかまた、都合のよい神頼みをしている。人間ってのはこればっかりだ。こればかり! だが祈らずにはいられない、それが人情ってものだろう? え、違うかい? うまくいってくれ、そう祈らずにはいられない! うまくいってくれよ! 神様! この場をしのぐことが出来れば、おれはまた、やり直せるんだ!
運命の女神に見染められた男、その男の乗るおんぼろのステーションワゴンが、ついに動き出した。
男の子が、イトウは協力してくれる人間ではないことを知ったのは、車が走り出してから二十分ほど経ったころだった。男の子は憎悪の目でイトウを見やり、喚き、暴れ、罵った。卑怯者! 裏切り者! 大人のくせに! イトウは暴れる男の子の頬を一発殴り、運転席側のドアのコンパートメントに隠しておいた二つの手錠で男の子の手と足を施錠し、拘束した。そして男の子の着ているTシャツの襟とデニムの短パンのベルト通しを掴み、後部座席の床に転がした。後部座席の窓ガラスには黒いフィルムが張られていて、外から車を覗くためには鼻をぺちゃんこにしない限り見えることはない。
「大人しくしてくれ、頼むから」イトウはハンドルを握り、前を向いたまま男の子の様子を目端で確認しながら言った。「おれは今一生のなかで一番大切な時間を過ごしてる、もしお前が喚くのをやめなかったら、その大事な時間をめちゃくちゃにされてしまうんだ。なぁ、後生だ、頼むから静かにしててくれ」就寝前に三冊目の絵本の朗読を催促される親が、眉根を下げて子供に許しを請うかのような声だった。おんぼろのステーションワゴンは時速六十キロで幹線道路を北へと走り、ETCレーンを通って高速自動車道へ進入する。額と脇にたっぷりと汗をかき、男の子を殴りつけた拳がいまになって痛んだ。熱を含み、痛痒かった。「大人しくしてくれさえすれば、痛い思いはしなくて済むんだぞ」
「ばか野郎! お前は卑怯だ!」男の子が叫ぶ。「死んじゃえ! 大ばか野郎!」
「いいや、おれは死なない。死んでたまるもんか」
そうだ、おれは死なないぞ。死ぬもんか。速度を九十キロまであげて本線へ合流する。前を走る緑のコンバーチブルを追い越すために右へ車線を移す。
「なんでこんな最低なことをするんだ!」
「最低なことだと」左車線を走っていた黒いハイエースが、突然進路を変えてイトウの前に割り込んだ。「最低なことだと!」イトウはありったけの力を込めてクラクションを叩いた。だが警笛は鳴らなかった。ずっと前に壊れていた。「最低なことでもしなきゃならない! お前みたいなガキにはわからんだろうがな」
「あんたは死ぬよ」
「うるさい!」イトウはまたクラクションを力任せに叩いた。「おれは死なない! 絶対に死ぬもんか! じゃなきゃあおれはなんだって生きてきた? その答えをおれはまだ知らない。死ぬもんか、おれはそれを知るまで死ぬ気はないんだ」
「いいや、死ぬよ。あんたは噛み砕かれて死ぬ」男の子は言った。「ポプシーに殺される。いい気味さ。ポプシーはね、足が大好物なんだ。いつも地中に潜ってて、悪い人を探してる。ねぇ、あんたは知ってるの? 悪い人っていうのはね、おばあさんの積み立ててきた貯金をひったくる泥棒や憎んでる親をナイフで刺し殺す子供や戦争の最中に母娘をレイプする兵士のことじゃない。本当の意味での悪人というのは」
「黙れ!」イトウは男の子を見返り叫んだ。ハッとした。床の上で頭をもたげている男の子のその目が、ぞっとするようなピンクパープルの色をしていたのだ。どぎつい色は発色し、暗闇に潜む猫の目のように、光を放ってイトウを見据えていた。「お、お前はいったい」
「あんたはぼくの目を見なくちゃならない」男の子は静かな声で言った。だがイトウにはその声がはっきり聞きとれた。「本当の悪人はあんたみたいな人間さ。なににもなれない人のこと。善にも悪にも、卑劣にも独善主義者にも、なんにも誰にもなれないお前!」イトウは釘づけになった。ステーションワゴンは舵取りを失い、ゆるやかな右カーブのために左の側道に迫る。後続車が異変に気付き、短くクラクションを鳴らした。さっき追い抜いた緑のコンバーチブルだった。「ポプシーは明るいのが好きじゃない。だから食べ物を探すのはぼくの役割なんだ。それに」棒切れで力いっぱい殴られたような強い衝撃。ステーションワゴンの左バンパーが、灰色の防音壁にぶつかったのだ。イトウは両手で顔面を守った。フロントガラスに頭をぶつける。男の子は座席の下の狭い空間にいたのでほとんど衝撃はなかった。ステーションワゴンは左側面をガリガリと大きな音を立てて高速自動車道を道なりに進む。それでもなお、速度はあがっていた。イトウはこのときすでにアクセルペダルから足を離していたというのに。「レゴブロックの新作が出てたんだ。『赤い悪魔と青の騎士たち~戦火の代償』シリーズの新作ブロックがね、今日発売だったんだ。だからあのショッピングモールにポプシーと出かけてたんだよ」
イトウはチカチカと明滅する意識のなかで頭の傷を確かめた。血は流れていないが、コブが出来るのは間違いなかった。ステーションワゴンはまだ左側面を火花散らして進んでいる。イトウは片手でハンドルを右にきった。体がスライドする感じはしなかった。今度は両手で大きくハンドルをきった。なにも起こらない。ぶつかったときに故障したのだろうか、以前として車は左側面を傷つける。ガリガリ!
「ポプシー!」
男の子が大きな声で叫んだ。
カチリ
「ポプシー、来てよポプシー!」
カチリカチリカチリ
運命の女神が人差し指で時計の針を進めている。上部にふたつの金属ベルが付き、ベルの間に小さなハンマーがある目覚まし時計には、太くてぐにゃぐにゃに折れ曲がった一本の針が真ん中から伸びていて、盤面には頂点を0として11までの数字が描かれている。一本しかない針は女神の導きによって、ガーターを転がるボウリング玉のような素直さで11を出発して0へと進む。この時計こそ人生最期のカウントダウン、進路変更絶対不可の軌道となるのだ。
意識が途切れそうになる瞬間、イトウはぞっとするような気配を下から感じた。それは紛れもない、ポプシーの気配。ポプシーは足が大好物なんだ、男の子の言葉が頭をよぎった。
ガリガリ!
これは防音壁を擦る車の音じゃない、イトウにはわかった、これはムシャムシャの音だ。ポプシーが自分の足を食べているのが見えた。ポプシー! と少年が叫ぶ。イトウは痛みと恐怖で絶叫した。
「このぉおおお! くそたれぇええ!」イトウは自分の足に喰らいつくポプシーの顔面向けて拳を振り下ろした。ポプシーは運転席の床を突き破り、イトウの右足の脹脛に鋭い牙を食い込ませている。ポプシーには大きな口はあったが目は無く、目を閉じた単眼症の豚か、先っぽまで完全に皮の被った包茎ペニスみたいな顔で、皺の寄った薄青い肌をしていた。頭部は肌よりもっと青くて太い血管が幾筋も隆起していて、スイカほどの大きさがあった。「死ねぇええ! 化け物やろぉおお!」
イトウの抵抗に怯むことなくポプシーは脹脛を噛みちぎった。血がポンプのように噴出し、これほどの出血を見たことがなかったイトウは、不可避である目の前の現実を、真っ赤なペンキがぶちまけられたのだと理解しようとした。しかしポプシーがイトウの脹脛を一噛みし、顎を動かすたび、歯の間に見え隠れする肉片となった体のパーツを見ると、滝のような衝撃で痛みが襲いかかった。
後部座席の男の子は、ぎゃあぎゃあ泣き喚くイトウを見てゲラゲラ笑った。車は速度を落とさず、防音壁に身を削りながら時速九十キロで道路を走る。路面に潜り込むポプシーが車を抱え、あるいはなんらかの力で車を動かしているのだ。
カチリカチリ、運命の女神が時計の針を回す。カウントダウンはもう終盤だ。イトウの残り時間はゼロに近い。もうあと数十秒、一本の缶ジュースを飲み終えるほどの時間しかない。足からとめどなく流れる血は、運転席の起毛の毛羽立つシートに染み込み、ダッシュボードやフロントガラスを赤く染めた。車の底を突き破り、ダッシュボードの下の空間に頭を出しているポプシーは、イトウの脹脛を奥歯でガリゴリ噛み砕き、床へと流れむ温かな血を、おぞましい音を立てながら啜った。
「ぐぞぉ、ぐぞぐぞ、ぐぞだれぇえええ」イトウは両手で傷口を押さえ、一直線に迫りくる死の絶望に恐怖した。ノッペラボウの食いしん坊を忌々しく思った。自分の肉と骨を食われ、血液をゴクゴク飲まれている。殺したいほど憎らしかった。何千時間も罵ってやりたかった。「ぎざまのぜいでぇええ」イトウは両目から大粒の涙を流し喘ぎあえぎ叫んだ。感情は、怒りと悲しみと憎しみが混じりあった。そこには後悔もあった。昔からずっと続いている後悔、そして、強烈な痛みから転換される生への執着があった。死にたくないとイトウは人生で初めて強く思った。「ぐぞぉぐぞぉぐぞぉぐぞぉ」今こそ後悔をやめるときだ。間欠泉のように噴き出すいくつもの感情のなかから、イトウは後悔をやめなければならないという念、その情念に意識を集中させた。体のなかで嵐となって渦巻く激情、現実とイトウを頑なに繋ぎとめる足の痛み、イトウは左手を傷口から離し、右手で傷口を鷲掴んだ。想像もできない痛みが全身を駆け抜ける。天を仰いでひゅうと息を飲む。そのまま気絶しそうになって、気力だけで右手の人差し指を動かした。意図して動かしたわけではない人差し指は、露出して間もない真っ赤な肉を釣り針のようにグイと抉った。その痛烈な痛みが意識の線をピンと張る。車内は激しく揺れ、ブリキ板に何百本もの釘を強く擦りつけたような大きな音が絶え間なく響く。イトウは泣き叫ぶ。男の子がゲラゲラ笑う。運命は、進む。
空は青く晴れていた。
小川のように澄み渡り、雲は魚や綿菓子の形を作って、ずっと西のほうを流れている。ハムと卵のサンドイッチを籐のバスケットに入れ、ピクニックへ出かけたくなるような陽気。みんなの心はここぞとばかりに晴れやかだ。
悪魔はこういう日にこそ現れる。雷鳴轟き、強い雨が窓を叩き割ろうとするような日に出る悪魔は、暗いうちにしか外出しない根暗な奴か、腹を空かせてよだれを垂らした馬鹿面かのどちらかだ。賢くて残酷で、悪魔からも恐れられる非道な悪魔は、なにもない、平凡な日常にこそ現れる。人は、何気ない日常を過ごしすぎてしまうと非日常との境界線がわからなくなる。それは自分の歩き方がわからなくなるみたいに。普段通り歩いているつもりなのに、ふと意識して自分の歩き方を再現してみようとすると、途端にそれが普段通りの歩き方であったかどうか不安になる。首を捻り、なにか違和感を覚えて、怖くなる。他者の目が気になり、吐き気を催す。
将来を考え不安になったとき、恋人に裏切られるのではないかと怖くなったとき、それでいいんだよ、と誰かは言う。それでは良くはなくても、それでいいよ、大丈夫だよ、平気だよ、と誰かはシャーベット状の糞を指先でなじるような優しさで言う。中身のない安易な言葉は、悪魔の囁きに他ならない。もし、ついうっかりにでもその囁きに同意してしまうと、それは地獄へのゴンドラチケットを手に入れたようなものだ。
もし、それでいいよなんて言う人がいたら、殺さなければならない。それは悪魔の箴言なのだから。
殺すというのはナイフで切りつけることやバットで殴りつけるという物理的なことではない。意識で殺すということだ。真意を言わない馬鹿なやつの戯言とは決別するのだ。いままでの自分を捨て去り、覚悟し、勇気を奮い起すのだ。
いいんだぁあああよぉおおお
後部座席で突っ伏している男の子が叫んだ。その声は、五歳児の甲高い声ではなかった。声変わりを二十回も終えたような、地鳴りみたいな声だった。
お前は死んでもいぃんだぁよぉおおお
生きることは楽しくない。そんなことは当たり前なのだ。死とは生まれたその瞬間から始まる。負に向けた前進が楽しい人間などいるはずがない。だが、その死は忘れることが出来る。負は忘れることが出来る。どんなマイナスでも捨てることが出来る、忘れることが出来る。それをプラスへと置き換えてやることは、可能なのだ。
カチリカチリカチリ
イトウはかたく目を閉じ、どこかへ飛んでいきそうな自分の意識の尻尾を必死に掴んでいた。男の子の叫び声もイトウにはほとんど聞こえていなかった。だが、運命の時計の音だけははっきりと聞いていた。聞き慣れない、お喋り人形の背中に付いたゼンマイを回すようなその音を、イトウは蜃気楼のように朦朧とする意識のなかでたぐり寄せた。宇宙のような暗黒のなかに、一点の光が見えてくる。そしてその光は迫り、やがて見える、異次元の世界で時計を回す運命の女神の姿を。イトウはぎゅっと目を閉じ、自分の精神を次元の向こうへ跳ね飛ばそうと意識した。
そんなことが出来るかどうか、もはや問題ではなかった。自分の生死が天秤にかけられ、一グラムの分銅を置かれれば死へ傾こうとするようなとき、行動しようとすることが論理的算法によって実利的結果を生み出すことであるかどうかは、どうでもよいことだった。
内包されていた精神は体を離れ、青白い煙のような気体となって宙に浮く。そしてなにかとても大きな力に引き寄せられた。空間のなかにぽっかりと空いた小さな穴があって、その穴に引き込まれた。まるで映写機に吸い込まれるフィルムになったような気分だった。
イトウの精神は時空を超えた。
女神は楡の古木の二股になったところに座り、草原に置いたテレビモニターでイトウの様子を見ていた。異次元の世界にも空があり、地面があった。空はピンク色で、背中に翼を生やした天使がダリの絵を抱えて飛んでいた。「おれはまだ死なないぞ!」イトウは女神に突進し、女神の顔面を殴りつけた。実体と遊離した状態のイトウには、頭も腕も食いちぎられたはずの足もあった。思いがけない出来事に、女神は悲鳴をあげることも出来ずに楡の古木から転げ落ちた。「おれはまだ死ぬわけにはいかないんだ!」イトウは古木の向こうへ倒れ込んだ女神を追って、木の裏側へ回りこんだ。黄色のイブニングドレスを着た女が倒れ込んでいる。女の容貌はとても若く、少女のような顔と体つきだった。
「なんて酷いことを」
女神は殴られた右頬を押さえ、イトウを睨みつけて言った。
「酷いことなどあるもんか! おれはいま死にかけてるんだ。おれの命がかかってるんだ。必死なんだ!」
「そんなことわたしには関係ない!」女神は突っぱねるように言った。「あなたが全ての責任でしょう? あなたが堕落した生活を繰り返しているから悪魔を呼びこんでしまったのよ、自業自得じゃない」
「うるさい!」イトウは怒鳴った。「そんなのはもういいんだ。いままでなんてこれっぽっちも関係なんかない、そんなのは捨てておけばいい。いまおれが考えなくっちゃならんのはこれからのことだ! おれはいま死にかけてる。反省している余地はない。反省するのはずっと後でいい。いまおれは死なないために行動しなくちゃならない、それが全てを優先してまず先だ。おれはそう、死にたくないんだ!」イトウは倒れ込んだままの女神の胸ぐらを掴み、グイと引きあげた。「時計を出せ! お前は持ってるんだろう? それでおれの命が決まるんだろう?」
「どうしてそれを知ってるの?」
「さぁ、どうしてかな。死ぬ間際になると昔の疑問が晴れるって聞いたことあるけど、そんなとこじゃないかな、まぁとにかく、おれは知ってるんだ。あんたが誰かもおれは知ってるし、ポプシーが次に食いたいものはおれの左足だってことも知ってる。おれはまだ生きたい、生きなくっちゃならない。そうしたいんだ」
「だめよ、あなたにこれは渡せない」
女神がきっぱりそう言うと、イトウは拳を振りあげ威嚇した。女神は首を小さく振って観念し、時計を差し出した。イトウは受け取った時計を地面に置くと、渾身の力を込めて運命の時計の盤面を踏みつけた。0に差し迫っていた針は粉々に砕け散り、時計はもはや動かなくなった。
「時計を止めたって、あなたに残された時間が少ないことに変わりはない」
「あぁ、そうだろうな。おれの人生が進んでいたことは間違いないことなんだから。でも、きっと生きてやるさ」
そう言ってイトウは目を閉じ、意識を集中させた。実体へ戻るためには雑念を取り払わなければならない、いったい自分にどれほどの時間が残されたのか、そんなことを考えている余裕はない。とにかくいまは、やらなければならないと思うことをやるだけだ。それがうまくいくことであるどうか考える時間はない。イトウは、体の内側で起こる変化に気づいていた。本来的な性質の変化が身に生じたとき、それは顔つきも、姿勢を正すその少しの変化によって、体格すらも大きく変える。
「ねぇちょっと待って」女神が言った。空にはさっきダリの絵を抱えていた天使が、今度は胸一杯に金貨を抱えて飛んで行った。「聞いて欲しいことがあるの」
「なに」
「あなたはもう弱くない、いまのあなたは強い信念を持ってる。あなたなら、もしかするとポプシーをやっつけることができるかもしれない」
「うん、おれもそのつもりだよ。ねぇ悪いけどさ、おれには時間がないんだ、わかってるだろう?」
「うん、わかってる。でも待って、もう少し聞いて。あなたにとってとても大切なことだから」
「うん、手短にしてね」
「ポプシーはとても強い力を持ってる。あなたが力いっぱいに殴ろうが蹴ろうが、そんなのポプシーにとっては蚊に刺される程度でしかない。ねぇ、ポプシーの顔を見たでしょう? 薄青くてとてもいやらしくって」
「うん、見たよ。ミミズの頭みたいな感じだった。そういえば思い出すな。小学生のころミミズが好きなやつがいてさ、雨の日はミミズが水たまりで泳ぐんだって言ってね、傘をこう、くるくるって回すんだ」
「そうなの、わたしの友だちにもいたわ」
「へぇ、いたんだ」
「うん、この世界とあなたの世界はなにかしら関わり合いを持ってるから。あなたが知ってるその子とわたしの知ってるその子は、もしかしたら同じ子かもね。でね、肝心なのは、ポプシーをやっつけても意味はないってこと」
「どういうこと?」
「ポプシーを操作しているのはあの男の子なの。男の子をやっつけない限りポプシーはあなたを襲い続ける。たとえあなたがなにかしらの手段でポプシーの首をちょん切ったとしてもね」
「あぁ、そうだったのか。驚いたけど、驚いてはいられない、おれには時間がないんだ。ねぇありがとう。いい話を聞いたよ、あの薄青の化け物よりも男の子のほうがずっと殺しやすそうだから」
「待って、まだ話は終わってない」
「なに、まだあるの?」
「うん、ある。あの男の子だって簡単にやっつけられるわけじゃない。忘れたの? あなたの股の間にはポプシー顔が突き出てるのよ。あなたが後部座席に移動しようものなら、間違いなくポプシーはあなたのお尻にかぶりつくよ」
イトウは顔をしかめた。「じゃあ、どうすれば」
「方法はある、ポプシーポプシーお前の競技はいつ見れる? こう叫ぶの、大きな声で」
「どういう意味?」
「ポプシーはもともと人間なの、あの男の子もね。ポプシーは走り幅跳びの優秀な記録を出すスポーツマンだった。高校へは陸上部の特待生として進学してね、大学へも同じように進学を希望していた。学資給与と授業料免除を与えられるために、幅跳びの練習も勉強も真面目に取り組んで、周りの人たちからも尊敬されてたの。性格は温厚でまじめ、ちょっと控えめな子だったけど、電車ではぁはぁ息を切らしてるお婆さんにはちゃんと声をかけて席を譲るタイプだった。女の子のお付き合いもしたことない、シャイなところもあった。あの醜い怪物がね、想像出来る?」
「いや、出来ないな」
「うん、そうだよね」女神はぽつりと言った。「あなたの世界では、誰も理解出来ないことが、それが自然のことであるかのように起こる。絶対に起こりっこないようなことが、ひっそりと静かに、当たり前のように起こる」
「なにがあったの?」
「ポプシーがね、競技の練習を終えて学校の寄宿舎に帰ってたの。寄宿舎は学校の周りに沿って歩いて十分のところにあるんだけど、その途中にはお酒を飲むとこが一軒あってね、夫婦で切り盛りしている小さなお店だった。いまはもう旦那さんが死んじゃって店はなくなってるんだけど、ポプシーは、そのお店から出て来た客の男に殺されたの。酔っ払いに、殺されたの」
「ふぅん、それで死んでも恨み辛みが重なって、いまでは他人の足を恨めしがってるわけか」
「まぁ、そういうことね。ポプシーは」女神はなにか言いかけたが、悲しそうな顔をして下を向いた。「いえ、人間にとって不遇は突然訪れる。そしてそれは必然だったりもするもんね」
「おれの場合は必然だろうね」イトウはにやりとして言うと、女神は顔をあげて少し笑った。「さぁもう本当に時間がない、おれは行くよ」
「待って」女神は歩き始めようとしたイトウの手を掴んだ。女神の手は小さくて、か弱い手だった。「最後に聞いて、ほんとに最後だから」女神の瞳はブルーで、とても綺麗だとこのときイトウは思った。「あなたの住む世界では強く信じることのできる人が誰よりも、なによりも強い。ポプシーは盲念の塊りに過ぎないの。狂暴ではあるけど、力の方向を変えさえすればあなたに危害は及ばない。ほんとに手ごわいのはあの男の子。あの子は自分の考えが全て正しいと信じきってる。わたしに出来る話しはここまで、ほんとなら最後まで話したい。だってそうでしょう、わたしは運命を知っているんだもの。あなたがどうなるか、それもわたしは知ってる。わたしってどうかしてるね、こんな意味のないことをドラマティックに話しちゃって」
「いやいいさ、わかってる、わかってるんだ。退屈なんだろう、それでいいじゃないか。気分を変えなよ。気分を変えて、考え方を変えるんだ。そうすれば、少しずつでもなにかは変わっていくものさ。あんたは人間がこれから辿る紛うことなき運命そのものだ、でも、おれは乗り超えたいんだ。君だってその運命ってやつを乗り越えられる、そんな気が、いまのぼくにはするよ」
そう言って、イトウは目をつむった。漆黒の帳が下りてくる。女神の手が離れたのがわかった。勝負はこれからだ。おれの本来的な意味での人生はいま始まった、おれはやらなくっちゃならない、やるべきことをやらなきゃならない、そのことのみを今はただやればいい、おれは今度こそやらなくちゃならない。意識を集中させる。暗い海のなかに意識を投じる。星のような光が、ずっと遠くで瞬くのが見える。もっと意識を集中させる。おれは帰る、自分の体へ、足のない、現実のおれに帰るんだ。イトウの精神の背後から、大きな光が轟音響かせ体の真横を通り過ぎた。イトウはその流れ星みたいな光に投げ縄を引っ掛けるイメージをした。必死に取りすがる。強烈なスピードが全身を包む。頬にひんやりとした風を感じる。進むことを考え進めばどこかへ必ず迫る。自分の体へ帰るんだ。体がぐにゃぐにゃになる。まるで液体みたいにとろとろになる。なにもかもが、混じり合った。
女神はイトウの背中が消え去るのを最後まで見送ると、楡の木の根元にあるシェルチェアに腰をおろした。それはまるで老婆のような緩慢な動きだった。煙草は二百年前にやめていた。自分のした無益な発言を後悔した。だが、それを忘れさせる興奮を胸のなかで感じとっていた。数えきれない人の運命の脈動と終焉を見てきた彼女だったが、イトウの言葉を思い出すと、体が震えるほど胸が高鳴った。
目を開けると、ポプシーがいままさに左足に食いつこうとしていた。イトウは咄嗟に左足をあげた。女神に教えてもらった文言を叫ぶ暇はなかった。ポプシーの歯が履いていたスニーカーのつま先を削り取る。イトウは尻を浮かせて助手席へ逃れる。ポプシーが首を伸ばしイトウの足を追う。ギロチンが落下したような、ポプシーの噛み合わされた歯が大きな音を立てた。
「ポプシー!」男の子が叫ぶ。「なにしてるのポプシー! 早くそいつをやっつけてよ!」
ポプシーはハァハァとグロテスクな吐息を漏らしながらさらに首を伸ばした。イトウは助手席の脇に手を突っ込み、サイドレバーを思いきり引いた。そしてエンドゾーンに飛び込むオフェンスランナーのように前方に体重をかけて倒れ込んだ。
血肉に飢えたポプシーの歯が空気を切断する。イトウは後部座席に這い進み、男の子を見下ろした。「やっとここまで来てやったぞ」イトウは憎しみを込めて言った。瓶コーラの栓を開けたように、イトウの片足はプシュッと音を立て辺りに血を散布した。
お前は悪者!
お前は悪者!
お前は悪者!
男の子はがなり立てる。
イトウは拘束した男の子に近づいた。両手を軽く握り、親指だけを突き出す。その両手のグッドサインを、慈愛に満ちた母親みたいに、ゆっくりと男の子の目に近づけた。
お前は悪者なんだよぉおおお
男の子は気の狂った声をあげた。
イトウは瞬間的に力を込め、親指、そして体全体を一気におろした。男の子は痛烈な叫びをあげた。何百台のキーボードの一番高い音と低い音を同時に弾いたような、強烈な咆哮だった。
男の子が苦しみで胸を大きくのけ反らせた。地中から必死に這い出ようとするミミズガエルみたいな動きだった。首を伸ばすポプシーがイトウの背後に迫る、まるで妖怪のろくろ首みたいだった。イトウは肩越しに振り返り、「お前には素敵な足があるだろう!」と叫んだ。ポプシーはギクリとした反応をみせ、カウキャッチャーに乗りあげた不幸な牛みたいな叫び声をあげ、するりと首をひっこませた。「お前はもう死んだ! 死んだんだぞポプシー! お前が両足で地面を蹴って空高く跳躍する姿はいつ見れる! もう見れっこない! お前はもう、死んだんだ!」
ポプシーは大口開けて狂乱した。何十本もの鋭い牙をむき出し、だらだらと涎を垂らして悲劇の主人公を熱演した。ぐるぐるふしゅん、ポプシーは泣いていた。苦しくてせつなくて、やりきれなくて、ポプシーは泣いていた。
不遇は突然に、自然を気取ってその身に起こる。生きることの喜びはとても尊大なものなのだ。まだ生きている人間は、死ぬことよりも生きることを考えていかなければならない。
「ポプシー、眠ってくれ。ポプシー」
イトウも泣いていた。同情や哀れみなどではない、真の感情の表れだった。それは、ポプシーという人間だった者の心に、イトウの心が絵の具のように交わり、共感しているのだった。
ポプシーの力によって走っていたおんぼろワゴンは速度を緩め、左右に揺れた。後ろの車のけたたましいクラクションの音が聞こえた。目の前の怪物の存在が揺らぐ、消えようとしているのだ。ポプシーの体が透明になり、蜘蛛の巣状に亀裂の入ったフロントガラスが見えた。眠ってくれ、ポプシー、イトウは涙を流して祈った。
進行方向とは逆を向いて止まったステーションワゴンから、緊急出動してきたハイウエイパトロールと数名の善良な市民の手でイトウは救出された。千切れた片足には警官が持っていた包帯で簡易的に止血され、二分後に到着した救急隊員によってストレッチャーに乗せられた。
病室の天井を眺める生活は、イトウにとって退屈ではなかった。それは一人の、瞳の青い少女が、毎日イトウの病室を訪問してくれる、おかげだった。